東参道


東参道の入り口は鷹匠公園に面しています。そこからまさに神域にふさわしい杜に包まれた参道がつづきます。


    燈 籠

 東参道入り口に立つこの大きな二基の燈籠は、裏に刻まれた文字から、大正五年(1916)二月十一日に建てられたものであることが分かります。
 大正二年十一月、藩祖一豊・見性院夫妻・二代藩主忠義を祀る藤並神社境内に、一豊の銅像が建立されます。これをうけて侯爵山内豊景は、大正四年、燈籠を造り銅像の両脇に寄進することを申し出ます。こうして翌年二月十一日、左の写真のように燈籠が建てられ、三月七日には落成式が挙行されています。
 藤並神社は第二次大戦で焼失し、昭和四十五年の山内神社再建にあたって山内神社に合祀されました。この燈籠も、そのときに一豊・見性院夫妻をはじめとする祭神とともに、ここに移されたものなのです。



この燈籠は、明治四年(1871)四月に寄進されたことが、刻まれた日付から確認できます。寄進したのは、御親兵第一大隊第四小隊の隊員達です。
 明治政府は、政治基盤を固めるために廃藩置県を断行します。これには諸藩からの反発が予想されたため、政府は御親兵による軍事力の強化をはかります。明治四年一月、大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允が来高し、高知藩知事山内豊範に御親兵の献上を説きました。豊範はこれに同意し、二月には御親兵献上のための隊編成が行われ、六月に上京、この軍事力を背景に、七月十四日、廃藩置県令が発せられました。
 御親兵第一大隊第四小隊の隊員は、郷里を離れ上京する前に燈籠を寄進したことになります。命がけの任務につくにあたって、無事任務を果たすことや家族の安全などを、祭神である歴代藩主に祈ったことが想像されます。



 この燈籠は、一見すると向かいの燈籠(上記)と大きさがほぼ同じであることから対のように思えますが、よく見比べると形が若干違うことが分かります。刻まれた日付を見ると、この燈籠は明治五年(1872)四月、向かいの燈籠の一年後に寄進されていることが分かります。
 明治五年一月四日、十二代藩主豊資が七十九歳で亡くなります。豊資は十三代豊?(とよてる)・十四代豊惇・十六代豊範の実父で、藩主の座を退いた後も、ご隠居・少将様と呼ばれ、藩政に大きな影響力を持ちました。豊資は筆山に埋葬された後、三月二十一日、歴代藩主が祀られる山内神社に祀られました。
 ここに名前が刻まれている寄進者は、中級クラスの藩士で、側小姓・祐筆・御膳番など、いずれも豊資の側に仕えた者でした。つまりこの燈籠は、豊資を山内神社へ祀るにあたって寄進されたものなのです。



 社殿に向かう参道に、同じ大きさの燈籠が左右六基ずつ並んでいます。これらには、「文化四丁卯三月二十六日」の日付と、寄進者の名が刻まれています。文化四年(1807)は、藤並神社創建の翌年にあたります。つまり、この燈籠はもともと藤並神社に寄進されたもので、昭和二十年の空襲で藤並神社・山内神社共に焼失したのち、現在の山内神社創建にともなって藤並神社跡より移してきたものなのです。
 寄進者の名は全て土佐藩の家老で、家老十一家全てが確認できます。一つの燈籠に名前が二つ刻まれていますが、これは同一人物で、源氏・平氏・藤原氏など、各家の出自を知る事もできます。



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